坂の上の雲をさがして

長すぎて 僕の体に 秋の風 ~児玉源太郎、晩年の一句~ 「坂の上の雲」を読んで以来、児玉源太郎に惹かれました。色々と。自分なりに、児玉源太郎について(語るより描けの精神になりつつありますが)語りとうございます。

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

8月14日「終戦の詔書」発布

明日は、終戦の日です。(アメリカ戦艦ミズーリで降伏文書に署名した9月2日という説もあり)

64年目の夏をむかえるにあたって、我が家では父方の大叔父が大東亜戦争へ召集され出征していた事実が判明。南方方面で戦死されたそうです。ただ、遺骨も遺品もなく、陸軍から一枚の葉書のような通達が届いただけだったという話を、父からききました。

だとすると、大叔父は英霊として靖国神社に祀られているのでしょうか。去年はそれとしらず、終戦の日に参拝しましたが、今年はなおのこと「ありがとうございました」をお伝えしに行かねばなりません。

話は変わりますが、「終戦の詔書」を改めて読み直してみると、終戦までの日本という国と国民のありかたに感動しました。


詔書


朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。


(私は世界の大勢と我が国の現状を深く考え、非常の手段をもって事態を収拾しなければならないと決意した。このことについて、忠実で善良な国民の諸君にお話ししようと思う。)

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。

(私は政府に命じ、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、先にこの4国の出した共同宣言の受け入れを通告させた。)


抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ、萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ、朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰スル所以モ亦、實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ、他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス。

(もともと、国民が健康で安心して暮らせるように、また世界がともに繁栄していけるようにするというのは、皇室が昔から掲げていた目標であり、私も常々努力していたことである。先にアメリカ・イギリスに宣戦したのも、我が国が滅ばないように、また東アジアが安定するようにと思ってのことであり、決して他国の主権をそこない、領土を侵略しようと思ってやったことではない。)

然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ、朕カ陸海將兵ノ勇戰、朕カ百僚有司ノ勵、朕カ一億衆庶ノ奉公、各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス。世界ノ大勢亦我ニ利アラス。
加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ、慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル。


(ところが、戦争はすでに4年目に入っている。その間私の陸海軍の将兵は勇敢に戦い、私の政府の官僚は懸命に働き、私の国民は国のために力をつくし、各々最善をつくしていたが、戦況は必ずしも好転していない。世界の大勢も我が国側に不利である。さらに敵は新たに残虐な爆弾を使って罪もない人々を多数殺傷し、戦争の惨害はまさにはかりしれないものになってきている。)

而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。斯クノ如クムハ朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ霊ニ謝セムヤ。
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムニ至レル所以ナリ。


(このまま戦争を継続すれば、しまいには我々日本民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明そのものを破壊しつくしてしまうことになるだろう。このようにして国民を滅ぼしてしまっては、私は皇室代々の先祖の神霊に決して許してもらえないに違いない。これが私が政府に対しアメリカ・イギリスなどの共同宣言に応じるように命じた理由である。)

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ、職域ニ殉シ、非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ、五内爲ニ裂ク。且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ、朕ノ深ク軫念スル所ナリ。
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所、堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス。


(私は我が国とともに東アジアの解放に協力してくれてきた同盟国諸国に対して申し訳ないと思う。また、我が国の国民で、戦場や職場で非命に死んだ者、またその遺族のことを思うと体が裂けるような思いである。さらに、戦争で傷つき、戦災を受け、家や職場を失った人々をどう助けていくかということも、私は深く案じている。
 今後我が国の受ける苦難は並み大抵のものではないだろう。国民諸君の苦しみも私はよくわかっているつもりである。しかし時の運には逆らえない。私は耐えがたい敗戦の事実をあえて耐え忍び、将来のために平和な世の中を開こうと思う。)

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ。
若シ夫レ情ノ激スル所、濫ニ事端ヲ滋クシ、或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ、爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ、朕最モ之ヲ戒ム。
宜シク擧國一家子孫相傳へ。確ク州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ國體ノ華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ。


(私はここに国体を護り得て、今後も諸君の忠誠を信頼し、常に国民とともにあるつもりである。
今後、感情にまかせてむやみに騒ぎをおこしたり、自国民同士で争いあったりすれば、国の将来をそこない、世界の信用を失ってしまうだろう。そのようなことは決してしてはならない。
 これからは国をあげて、子孫を残し、日本が決して滅ばないという確信を持たねばならない。その責任は重く、道は遠いが、総力を将来の建設に傾けねばならない。人道と正義を重んじ、強固な精神を保たねばならない。そうすれば、日本の誇りを高く掲げつつ、世界の進歩について行くことができるであろう。国民諸君には、どうかこの私の願いを実現してもらいたいと思う。)

昭和天皇の願いを、実際、戦前・戦中生まれの方たちは、本当に成し遂げてしまったわけです。以前も書きましたが、敗戦からたった19年で東京オリンピック開催なんて、いま振り返ってみてもすごいと思う。

今まで会ったことのある、あの世代の方に訊いてみると、ほぼ

「家族や、みんなのために働いた」

という返事がかえってきます。(わたしの祖母、親、友人の祖父母含め)

「戦争で負けたが、まだ国のためにがんばれるのなら、戦うつもりで働こうと思った」

という返事がかえってきたこともありました。地元に住んでいた近所のおじいちゃんは元軍人の方で、確か、少尉で戦っておられたと記憶しています。

しかし、いかに「無私」「公」を重視していたことか。

もし、戦後のGHQによる教育改正がなければ、戦後もこの精神で行っていただろうに。と思うといかに教育が大事か思い知らされます。
スポンサーサイト

| ぶっちゃけ言いたい放題。 | 19:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

にほんがなくしたもの。

日本がなくしたもの(児玉大将に体現してもらってみた)



むかしむかし、そのむかし。

あじあには、にほんというくにがありました。
あきつしま、おおやしま、しきしま、ひいづるくに―、とよびながたくさんありました。

そこにすむひとびとは、そぼくであたたかなふうどにまもられたこのくにで、
おだやかで、けんきょなせいかくをもっていました。
きんべんで、どりょくをおしまない、めうえのひとや、そせんをあつくうやまう、というみんぞくせいは、「ぶしどう」という、たかいりんりかんをそなえたきょうようで、やしなわれました。

「ぶしどう」はえどじだいに、そのかたちをさまざまなものにかえ、しょみんにまでひろがり、こていのしゅうきょうからまなばずとも、にほんじんは、つよくやさしくしなやかなにんげんせいをもつようになったのです。

くにのあけぼの、めいじのみよがやってくると、ていこくしゅぎにせなかをおされて、にほんというくにもそのうずのなかにとびこみました。
それでもにほんじんは、にっしん・にちろというふたつのおおきなせんそうのなかでも、「ぶしどう」のせいしんをわすれはしませんでした。

めいじてんのうは、
「よものうみ みなはらからと おもふよに などなみかぜの たちさわぐらむ」
という、ぎょせいをおよみになられました。
そしてにちろせんそうで、りょじゅんという、なんこうふらくのようさいを、にほんがせめおとしたときには、こうふくしたろしあのへいしやしょうぐんたちの、はいせんのしょうへいであっても、ぶじんのめんもくをたもたしめよ、とおおせになったといいます。

さらには、ろしあのへいしたちをほりょにしましたが、てあつくかんごし、けしてかれらをぶじょくしたり、ばかにしたりということをしませんでした。
それはなぜかというと、ろしあというそこくのためにいっしょうけんめいたたかって、やぶれたへいしだからです。かれらはにくむべきあくにんではなく、ゆうきあるひとりのにんげんであるというにんしきが、にほんじんのなかにあったからです。
てきこくのへいしたちは、かいがいしくかんごをしてくれる、にほんのじょせいたちに、ふかいかんしゃと、いつしかあいじょうをいだいたといいます。
きずがいえて、くににかえるころには、かつてうけたきずよりもふかく、こいのやがかれらのむねにつきささっていたとまでいわれるほど、にほんじんというみんぞくは、じあいとにんげんあいにみちていました。

にちろせんそうがおわって、くにをふりかえってみれば、こっかよさんはひのくるま。
けれどせかいは、れっきょうしゅぎのまっただなか。
えどじだい、めいじじだいのせんだちがのこした「ぶしどう」は、そんなすさんだじょうせいのなかにおかれたにほんじんから、しだいにわすれられていったのです。

しかし、だいとうあせんそうがおこったとき、やまとだましいはふたたび、さんぜんとかがやきました。
にほんをおそれたおうべいのれっきょうこくと、はくじんこっかのしょくみんちをあじあからおいだす、というにほんの「だいとうあきょうえいけん」とが、まっこうからぶつかりました。
ついには、あめりかから、「はるのーと」という、がいこうのさいごつうちょうがつきつけられ、にほんというくには、そうぜつで、ひそうなけついをせざるをえないところまでおいこまれました。

しょうわてんのうは、さいごのさいごまでせんそうをかいひしたい、というごいこうをいだいておられ、ごぜんかいぎのさいに、めいじてんのうのぎょせいをおよみになられたといいます。

「よものうみ みなはらからと おもふよに などなみかぜの たちさわぐらむ」

しかし、かいせんのひぶたはきっておとされました。
かずおおくのにほんじんが、ふたたびにほんというそこくのききにたちあがり、いのちをかけてたたかいにゆきました。そこに、わすれさられていたとおもわれていた「ぶしどう」のせいしんが、ぐんこくしゅぎのなかにおいて、ゆがんでいたかもしれませんが、たしかにいきていました。


あじあには、にほんというくにがあります。


はるにはうつくしいさくらがさき、あきにはうつくしいもみじがてりはえ、あまてらすたいようのめがみがみまもる、そぼくでやさしいひとびとがすむ、そこく。
てんのうへいかばんさい、といってたおれていったへいしも、そこくにすむ、あいするかぞくやこいびとのために、ひいてはうまれてくるこどもたちのために、たたかったのです。

しかし、にほんは、だいとうあせんそうにはいぼくしました。
おうべいのれっきょうこくは、にほんをまかしましたが、そのきょうじんなせいしんりょくをまだおそれていました。そのせいしんりょくのみなもととは、「ぶしどう」でありました。

「ぶしどう」はかつてあめりかの、せおどあ・るーずべるとだいとうりょうにもぜっさんされ、せかいでしょうさんのまとでした。にほんじんは、「ぶしどう」があるがために、ろくにがいこくごをはなせなくとも、がいこくじんからそんけいされていました。
しかし、ほこるべきこのせいしんを、あめりかにとりあげられてしまいました。
にどとはむかうことのないように、きょういくやけんぽうをすりかえられてしまいました。くにをまもるべきぐんたいもかいたいされ、なくなってしまいました。

にほんがこわくてこわくてしかたのない、おうべいのれっきょうこくは「とうきょうさいばん」というしうちまでしたのです。まるで、かぎのついたはこにおしこめても、まだたりず、そのうえからきちがいのように、くぎをむすうにうちつけたようでした。

やきつくされたあきつしまは、のこされたにほんじんのてで、きゅうそくなけいざいのはってんをとげてよみがえりました。はいせんからわずか19ねんで、とうきょうおりんぴっくをかいさいするまでにいたりました。
このげんどうりょくは、すさまじいものでした。にほんじんがかつてもっていた、たいせつなものをおいていっただいしょうとしてか、とにかくも、ふたたびのぼるたいようのように、ふっこうをはたしました。

せいかつがゆたかになっても、にほんじんのこころは、ゆきばのないうすやみのなかにとりのこされたまま。
それでも、かつてもっていたよきもの。それはいまだにきえていません。
やきゅうのせかいたいかいで、にほんがゆうしょうしたとき、せんしゅひとりひとりのかおに、さむらいのおもかげをみたでしょう。おおきくゆれるひのまるのはたをみて、ほこらしくおもえたでしょう。

めいじじだいから、うつくしいそこく、にほんをまもってきたせんだちは、にほんじんがほんとうのにほんじんとしてたちあがるのを、てんからみまもりつづけていることでしょう。

むかしむかし、そのむかし。

あじあには、にほんというくにがありました。
あきつしま、おおやしま、しきしま、ひいづるくに―、とよびながたくさんありました。

そこにすむひとびとは、そぼくであたたかなふうどにまもられたこのくにで、
おだやかで、けんきょなせいかくをもっていました。
きんべんで、どりょくをおしまない、めうえのひとや、そせんをあつくうやまうこころをもった、ひとびとがすんでいました。

―いまはどうですか。あさがきて、すがすがしくめざめるように、にほんじんがふたたびめざめるときは、くるとおもいますか。

くりかえしくりかえし、たいようはのぼる。
なんどでもなんどでも、ひのひかりはさしてくる。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

| ぶっちゃけ言いたい放題。 | 18:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

敷島の大和心を人問はば

朝日に匂う山桜花


トップ絵の背景も、じぶんで撮った桜です。
(以下、写真サイズが合っていないため表示しきれていません。クリックして見てくださいまし)

というわけで、4日の朝8時に詣でてきました。マイラブ、氏神さま!(ぉ)蒲田八幡神社!
こどものころには境内で走りまわったり、いろいろと悪さをしてよく宮司さんに叱られたものです。

蒲田八幡神社

と、池上本門寺・五重塔(新しくなってぴかぴかでした)

池上本門寺・五重塔

(本堂から。正面の大階段のほうをみています)

池上本門寺・本堂から

(本堂です。去年のNHK大河ドラマ・篤姫で知られているとおもいますが、池上本門寺の奥庭には勝海舟と西郷隆盛が会談したという池上松涛園(昭和20年4月の空襲で焼失。平成3年に修築)があります)

池上本門寺・本堂

いやっ、もう日本人の心といえば桜です。
誰が何といおうと、桜です。

あの淡い何ともいえない花の色といい、風にそよぐだけで散る潔さといい。
忘れてしまった何かが、失くしてしまった何かが、心に帰ってくるような気がいたします。
日本人が取り戻すべき何かを、桜は思い出させる力を持っているのかも。
いくら叩いても踏んでも消えない。
それは魂の底に刻まれているので、いつか、きっと目覚めるはずだ!そう信じたい。

何かって何だ?と言われてもわたしはわかりません。ただ桜を見るとやたらと切なくなります。それなのに、目を逸らさずにずっと見ていたいのね。あら不思議ー。

百年前から、桜はずっと変わりません。

明治帝も、東郷さんも、山本さんも、大山さんも、山縣さんも、乃木さんも、児玉さんも。
みーんな同じ桜を見上げていたのかなぁ、などとおもってみたり。

―やいやい、お花見だなんだとか浮かれていやァがる衆も、本当は一人で桜を見上げる時ゃァ、こう、刹那でも胸がキュンとなるんじゃァねぇのかい?
隠したってオイラにゃわかるんだよ!(誰だ)

| ぶっちゃけ言いたい放題。 | 17:37 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。