坂の上の雲をさがして

長すぎて 僕の体に 秋の風 ~児玉源太郎、晩年の一句~ 「坂の上の雲」を読んで以来、児玉源太郎に惹かれました。色々と。自分なりに、児玉源太郎について(語るより描けの精神になりつつありますが)語りとうございます。

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児玉源太郎ってどんなひと?其の3

引き続き児玉源太郎の紹介です。
いよいよ佳境です。どうぞ最後までおつきあいください。

台湾総督児玉源太郎中将・後藤新平台湾民政局長官


1895年・明治28年日清戦争後、功績を称えられ男爵を授かる。

1896年・明治29年陸軍中将
(日清戦争後の9月頃、脳溢血で倒れる。症状がごく軽いものであったため、陸軍次官は留任)
1897年・明治30年松隈内閣が解散、第.3次伊藤内閣の成立とともに陸軍次官の職を辞する。

1898年・明治31年名古屋第3師団長に命ぜられる。
と、ここで児玉源太郎に台湾総督の席がまわってくる。

日清戦争に勝利したことにより、日本は台湾の統治権を得ており、1895年・明治28年から統治が始まる。
初代・樺山資紀、2代・桂太郎、3代・乃木希典と、歴任してきた総督のだれもが、統治に手を焼いていた。
児玉源太郎は、後藤新平と共に台湾へ向かい、8年もの間(1898年・明治31年~1906年・明治39年第4代・台湾総督を務める。
後藤新平台湾総督府民政長官に抜擢される。
主に成したことといえば、土地改革、鉄道開通、ライフラインの整備、阿片中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業(これがのちに大きな収入源になる)などの産業の育成などがこれにあたる。台湾の近代化を促した。
※もちろん、台湾の人々が日本の統治を手放しで喜ぶはずはなく、各地で反乱が相継ぎ、児玉源太郎はそれらの反乱や反抗に対し、厳しい処断を行ったことにも触れておかなければならない。
「処断」によって児玉の統治時代だけでも、4千人以上の台湾人を殺戮している。

しかし、軍政から民政へ移行させようという姿勢は一貫して変わらず、軍人総督としては稀有な姿勢であったと言える。

1900年・明治33年20世紀の始まりである。
国内では、第4次伊藤内閣が発足。児玉源太郎は台湾総督の任をそのままに、陸軍大臣となる。
が、半年経たずに解散する。次に立ったのは桂太郎である。外務大臣に小村寿太郎を起用するなど、少壮内閣として、有名である。
児玉はそのまま、桂内閣でも陸軍大臣を引き受ける。

1902年・明治35年陸軍大臣依願辞職・台湾総督専任
1903年・明治36年桂内閣発足。内務大臣・文部大臣・台湾総督兼任
この1903年・明治36年という年は、児玉にとって大きな転機の連続であった

10月、作戦参謀の重鎮とされていた参謀次長の田村怡与造が急逝。作戦立案の要をうしなった日本陸軍は後任をだれにまかせるか、ゆきづまる。
児玉源太郎しかいないと、だれもがおもっていたが、あまりにも在り得ない人事だったため、依頼しようにも二の足を踏んでいる状態だった。
そこで、児玉源太郎は自ら後任を買って出た。
児玉は自ら権力を掴みにゆく行為をよしとしなかったが、これがかれの人生において最初で最後の就官運動であった。この児玉の決断に、皆の愁眉がひらいたのは言うまでもない。

※あまりにも在り得ない人事だった、その理由※
陸軍大臣文部大臣を歴任、更に現在内務大臣台湾総督を務めている児玉源太郎は、いわゆる親任官である。それに対し、参謀次長は勅任官である。降格も甚だしいというわけで、誰も児玉の元にこの話をもってゆけなかった。(余談:日本に陸軍が創設、解体されるまでの間、後にも先にも降格人事を引き受けたのは、児玉ひとりである)


1904年・明治37年2月、日露戦争勃発。6月、陸軍大将

※日露戦争中の児玉源太郎の活躍については、まだいくつかの文献を読むのみに留まっており、勉強不足で力が及ばないため、詳細は書けません※

児玉源太郎満州軍総参謀長の任にあって、常に戦局と戦費と、諸外国記者団・観戦武官への待遇(戦費調達の要、国債発行の為)などにも細かく気配りをしつつ、満州の地で全軍を指揮して駆け回った。
金州南山の戦い、二〇三高地占拠、旅順陥落、黒溝台会戦、奉天大会戦などを戦い抜き、奉天に入城を果たした日本軍であったが、弾薬はもはや尽きかけており、兵員ともども、疲弊しきっていた。

「おい長岡、なにをぼんやりしちょる。火を点けたら消すことが肝要なのを知らんのか」
奉天から東京に戻った児玉は、出迎えにきた長岡外史に向かってこう言ったそうだ。
かろうじて漂う勝利の空気のなかで、さっさと講和してしまわないことには、これ以上陸軍は戦えないということを、児玉はだれよりもわかっていた。賠償金などを放棄して早期講和にこぎつけさせたのも、実は児玉なのである。

1905年・明治38年奇跡的な完全勝利を収めた日本海海戦を経て、日露戦争終結

1906年・明治39年参謀総長就任、台湾総督の任を降りる
参謀総長に就任したのは4月。児玉は生涯を尽くしてこの任を全うしようとおもっていたに違いない。
その現れとしては5月に、伊藤博文公らと満州を巡って激論を交わしていることからも、垣間見える。
しかし、7月23日、児玉源太郎は中枢性脳溢血により、急逝する。

大雑把ではありますが、以上、児玉源太郎の紹介でした。
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| 児玉源太郎:経歴・紹介 | 16:09 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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児玉源太郎ってどんなひと?其の2

前回に引き続き、児玉源太郎の紹介をしたいとおもいます。

児玉源太郎陸軍大将

陸軍大学校設立において、軍制を仏式にするか独式にするかで、陸軍内で大いに揉めるが、1885年・明治18年独より「智謀神の如し」と称されるクレメンス・メッケル少佐が来日。陸軍大学校の教壇に立つ。これにより、独式に落ち着き、事態が収拾する。

児玉源太郎はこのとき、陸軍大学校の幹事であった。設立間もないため校長の席は空いたままの運営であったため、実質取り仕切っていたのは幹事である児玉源太郎であったとおもわれる。
初代校長に児玉源太郎が就任するのは2年後の1887年・明治20年

1888年・明治21年・メッケル帰国。
この際、ある記者がメッケルに対して「教えたなかで、これはという人物はいたか」という質問に、「児玉源太郎と小川又次である。この両大佐は、作戦計画の真意義を諒解しているが、特に児玉は非凡であり、器局が大きく、進言を容れ、尚且つ他人にも聴くので、参謀として、師団長として、軍司令官として大兵を率いて過誤なく、自由に動かす能力があり、理想の天分に恵まれている」と語ったという。
(この年、海軍大学校設立)

1889年・明治22年陸軍少将
(この年、2月・大日本帝国憲法発布、7月・東海道本線開通

1891年・明治24年~1892年・明治25年欧州査察出張(独・仏・露)
このとき、独・マインツにてメッケル大佐と再会。このときみた演習が、のちの日露戦争において、児玉源太郎の戦術に大いに反映されることになる。

1892年・明治25年、8月帰国。陸軍次官任命、陸軍省軍務局長兼務
時の陸軍大臣は大山巌(日露戦争時、満州軍総司令官(大山)、満州軍総参謀長(児玉)として共に戦場へ赴く)
このころから多忙になり、1894年・明治27年日清戦争勃発。

意外なことに、メッケルをして「天才である」と言わしめた児玉源太郎は日清戦争の軍編成から外れている。日本に残って、陸軍省の代表として活躍した。…と、言っても何をしたか、あまり知られていないので、ここでひとつ紹介。

※日清戦争最大の敵は、疫病だった?※
日清戦争当時、戦場では疫病の防禦対策がなされておらず、後送されてくる軍人の多くが負傷によるものでなく、病気に罹ってのものであった。死者も1万人以上が病死であり、戦場で負った傷による死者は、その10分の1に過ぎなかった。
かつて西南戦争のとき、あやうくコレラが蔓延しかけた反省もあり、日清戦争が終結した際にようやく検疫に乗り出した。
その時の検疫責任者が、児玉源太郎である。この大仕事を前にした児玉に、軍医総監の石黒忠悳(ただのり)が、後藤新平を紹介する。
後藤新平:陸中水沢藩、士族出身。須賀川医学校卒業後、愛知病院長を経て内務省入省。衛生局長となり医療行政面で活躍。などの経歴の持ち主。のちに台湾総督を務める児玉に、今回の検疫でみせた手腕を買われ、台湾総督府民政局長官に就任。児玉の死後になるが、寺内内閣の内相・外相、東京市長、満州鉄道総裁にまで登り詰めた人物
児玉源太郎は後藤新平とともに、この一大事業をやり遂げた。

実施した件数を挙げると(ピンとこないかもしれませんが)

人員:23万2346人
船舶:687隻
物件:93万2779点


にも及んだそうです。
この検疫のおかげで、日本は日清戦争と日露戦争のあと疫病や伝染病が国内で蔓延しなかった。これは特筆すべきことであります。

この事業は世界に報道され、注目を浴びることになるが、知られたのはかなり後だったのかもしれない。なぜなら、欧州で第一次世界大戦後に疫病が蔓延し、特にインフルエンザが殺人的に流行したため、戦争と並んで悲惨な状況になったとあるからだ。このことが、もっと早く知られていれば…。

以上、意外と知られていない日清戦争での児玉源太郎の活躍でした。

長くなってきたので、一旦切ります。
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児玉源太郎ってどんなひと?其の1

肝心の、児玉源太郎を紹介していないことに気づいたので、します。
勉強不足で恐縮ですが、まァ
ぶらりと立ち寄ってくれたひと、そうでもないひとも、ちょっと覗いていってくださいな。


児玉源太郎陸軍大将・肖像


上の人物が児玉源太郎です。

生没年月日:嘉永5年閏2月25日~明治39年7月23日(享年54または55)
(西暦計算に直すと1852年4月14日~1906年7月23日)

周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩である徳山藩の武士・児玉半九郎の長男として生まれます。児玉源太郎はいわゆる「士族」出身です。(ちなみに元服した時の名は、児玉源太郎忠精(ただきよ)
しかし児玉家は、父・半九郎の憤死、義兄・次郎彦の惨殺という事件がおこり、嗣子・源太郎(幼名:百合若)が元服していないため、家名断絶の憂き目に遭いますが、のちに復興します。

明治期は大日本帝国陸軍の軍人さんでした。最終階級は大将です。

Q:児玉源太郎は、何をしたひと?
A:大雑把に言うと、日露戦争で活躍した軍人さんです。

※でも、そこに至るまでどうだったのかというと、こんな活躍をしてます※

1868年・明治元年(16歳)、戊辰戦争で初陣、このとき半隊司令士(小隊長に該当)で指揮を執り、夜襲をうけたものの、機敏な判断をくだし、隊士にひとりの死傷者も出さなかった。
このため、参謀として参戦していた山田顕義(のちに、日本法律学校を創設。日本大学の前身)の目にとまる。

戊辰戦争後に京都に設立された仏式歩兵伝習所へ入所。
山田顕義の推薦もあり、その後躍進し、1872年・明治5年(20歳)、大尉拝命。

1874年・明治7年佐賀の乱(このとき負傷。右手首、左腕に銃弾が貫通)

1876年・明治9年神風連の乱(司令官・参謀が惨殺されるも、果断な処置で事態を収拾する)

1877年・明治10年西南戦争(参謀少佐で参戦。熊本城籠城戦を戦い抜く)
↑ちなみに西南戦争時、「コダマショウサハ ブジナリヤ」という電報が東京から届いたという。
先の二つの内乱で活躍した児玉源太郎は、当時26歳。いち少佐であったが、いかに期待をかけられていたかわかる逸話として有名。

このあと、1878年・明治11年の12月まで熊本で事後処理などをこなす。

ここで、児玉源太郎がどの辺の時系列にいるのかわからないひとのために。
わかりやすい事件をあげると…。大久保利通が、東京で暗殺されています。あと竹橋事件ですかね。

このあと、東京の陸軍省から呼び出されて出向くのですが、同郷出身で、僅かながら兵学寮で共に過ごした、ニコポン・桂太郎と再会したのを契機に、山縣有朋陣営に足を突っ込むことに。

1880年・明治13年中佐・東京鎮台第2連隊長
このとき、同じく兵学寮で共に過ごした乃木希典大佐率いる、東京鎮台第1連隊に対抗演習を申し入れ、変幻自在の陣形で第1連隊を負かした。
秋には雪辱戦ということで、逆に第1連隊から申し入れがあり、再び対決。
これもまた、児玉源太郎率いる第2連隊が勝利をおさめ、「何事も機転の利かぬ野狐を、七分小玉で打ちあげた」と、歌をつくって部下に歌わせたという逸話も。

1883年・明治16年大佐
陸軍大学校設立される
(ちなみに、この年に鹿鳴館が完成していたりします)

続きは次回!
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