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坂の上の雲をさがして

長すぎて 僕の体に 秋の風 ~児玉源太郎、晩年の一句~ 「坂の上の雲」を読んで以来、児玉源太郎に惹かれました。色々と。自分なりに、児玉源太郎について(語るより描けの精神になりつつありますが)語りとうございます。

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児玉源太郎ってどんなひと?其の1

肝心の、児玉源太郎を紹介していないことに気づいたので、します。
勉強不足で恐縮ですが、まァ
ぶらりと立ち寄ってくれたひと、そうでもないひとも、ちょっと覗いていってくださいな。


児玉源太郎陸軍大将・肖像


上の人物が児玉源太郎です。

生没年月日:嘉永5年閏2月25日~明治39年7月23日(享年54または55)
(西暦計算に直すと1852年4月14日~1906年7月23日)

周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩である徳山藩の武士・児玉半九郎の長男として生まれます。児玉源太郎はいわゆる「士族」出身です。(ちなみに元服した時の名は、児玉源太郎忠精(ただきよ)
しかし児玉家は、父・半九郎の憤死、義兄・次郎彦の惨殺という事件がおこり、嗣子・源太郎(幼名:百合若)が元服していないため、家名断絶の憂き目に遭いますが、のちに復興します。

明治期は大日本帝国陸軍の軍人さんでした。最終階級は大将です。

Q:児玉源太郎は、何をしたひと?
A:大雑把に言うと、日露戦争で活躍した軍人さんです。

※でも、そこに至るまでどうだったのかというと、こんな活躍をしてます※

1868年・明治元年(16歳)、戊辰戦争で初陣、このとき半隊司令士(小隊長に該当)で指揮を執り、夜襲をうけたものの、機敏な判断をくだし、隊士にひとりの死傷者も出さなかった。
このため、参謀として参戦していた山田顕義(のちに、日本法律学校を創設。日本大学の前身)の目にとまる。

戊辰戦争後に京都に設立された仏式歩兵伝習所へ入所。
山田顕義の推薦もあり、その後躍進し、1872年・明治5年(20歳)、大尉拝命。

1874年・明治7年佐賀の乱(このとき負傷。右手首、左腕に銃弾が貫通)

1876年・明治9年神風連の乱(司令官・参謀が惨殺されるも、果断な処置で事態を収拾する)

1877年・明治10年西南戦争(参謀少佐で参戦。熊本城籠城戦を戦い抜く)
↑ちなみに西南戦争時、「コダマショウサハ ブジナリヤ」という電報が東京から届いたという。
先の二つの内乱で活躍した児玉源太郎は、当時26歳。いち少佐であったが、いかに期待をかけられていたかわかる逸話として有名。

このあと、1878年・明治11年の12月まで熊本で事後処理などをこなす。

ここで、児玉源太郎がどの辺の時系列にいるのかわからないひとのために。
わかりやすい事件をあげると…。大久保利通が、東京で暗殺されています。あと竹橋事件ですかね。

このあと、東京の陸軍省から呼び出されて出向くのですが、同郷出身で、僅かながら兵学寮で共に過ごした、ニコポン・桂太郎と再会したのを契機に、山縣有朋陣営に足を突っ込むことに。

1880年・明治13年中佐・東京鎮台第2連隊長
このとき、同じく兵学寮で共に過ごした乃木希典大佐率いる、東京鎮台第1連隊に対抗演習を申し入れ、変幻自在の陣形で第1連隊を負かした。
秋には雪辱戦ということで、逆に第1連隊から申し入れがあり、再び対決。
これもまた、児玉源太郎率いる第2連隊が勝利をおさめ、「何事も機転の利かぬ野狐を、七分小玉で打ちあげた」と、歌をつくって部下に歌わせたという逸話も。

1883年・明治16年大佐
陸軍大学校設立される
(ちなみに、この年に鹿鳴館が完成していたりします)

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